もろっこのおもいで

僕にとって人生最大の問題は夏休みである。会社の夏休みは3日間になっているが、有給と週末を絡めて9日間とりたい。昨年はオッサン旅行を見合わせたので、今年は復活させようと思い、冬のうちから計画を練り始めた。

目的地はスペインにした。バスク地方とアンダルシア地方である。バルをはしごして、昼間からティント・デ・ベラーノ (赤ワインのソーダ割り) とシェリー酒を飲んでいれば幸せなのではないか。

それなりに予定を作って6月頃に航空券を予約するところまで来たが、友達オッサンが休めるか自信がないとのことである。直前で一人旅になっても困るので、オッサン旅行は今年も断念した。

ところで今年は冬にメキシコのグアナファトに行った。治安などの面で敷居の高かった場所だが、ついに行ってみたのだ。

それを思い出しながらスペインの地図を眺めると、下の方にジブラルタル海峡がある。そして海峡の反対側にはモロッコ。モロッコにはシャウエンという街があって、グアナファトと並んで僕の中で行きたかった街だ。

モロッコも敷居が高い。そもそも地理的にはアフリカ大陸である。最近はテロリストの出身国としてモロッコの名前をよく聞くし、隣国はアルジェリアである。治安は大丈夫だろうか。実際、日本の外務省の基準ではモロッコ全土にレベル1の危険情報が出ている。

ちょっと真面目に調べてみると、多少のリスクはあるものの、全体的に治安は維持されているようだ。前後左右と財布に気を配り、変な所に迷い込まなければ問題なさそうである。

グアナファトへ行った今年こそ、シャウエンに行くべきではないだろうか。バスク行きを止めて何日か捻出し、シャウエンへ行こう。

9月の早朝、エールフランスの深夜便でパリのドゴール空港に着いた。そしてバスでオルリー空港に向かう。オルリーは20年くらい前にオリンピック航空でギリシャに行った時以来ではないだろうか。そんなオルリー空港から、聞いたことのない航空会社に乗ってモロッコに向かった。人生初のアフリカ大陸である。

モロッコはイスラム圏であり、公用語はアラビア語とベルベル語である。外国語と言えばフランス語のようだ。英語はあまり期待できないらしい。

モロッコの通貨はディルハムだが、このモロッコ・ディルハムはモロッコ国外で事前に両替しておくことはできず、現地のATMでは一日あたりの引き出し額に制限がある。しかも出国時は原則的に持ち出し不可と、なかなか面倒くさい。

しかもモロッコではクレジットカードも使いにくそうだ。シャウエンではリヤドと呼ばれる邸宅ホテルに泊まるが、そこはカード利用不可とのことである。現金を用意しなくてはいけない。レートが良いのは現地ATMだが、引き出し制限のせいで何日かに分けてATMに行く必要がある。手数料を払って日本円をディルハムに両替するか、ユーロの現金で払うか。悩ましい。

治安の問題を別にしても、なかなか敷居の高い国である。

モロッコはタンジェという街に着いた。モロッコ第4の都市である。ボロい地方空港を想像していた。入国審査は不必要に権威主義的で、しかも細かくて厳しいのだろう。

着いてみると近代的で豪華な空港である。しかもスムーズに入国手続きが進む。ロシアの時と同じく、肩透かしを食った気分だ。

無事に入国を果たして出口に向かうと、空港の到着ロビーはガランとしていた。空港というよりも、寺院のような静けさである。白タクの客引きとか、自称ポーターとかがウヨウヨしてそうだと思っていたが、ほとんど無人に近い。

空港からシャウエンまでは、ホテルにタクシーを手配しておいてもらった。到着ロビーに出たが、わずかな人類の中に僕の名前を書いたボードを持った男はいない。こういうのをアウェーの洗礼というのだろうか。モロッコ旅行は出だしからつまずいている。

英語が大して通じず、しかも物価が交渉で決まる国で、着いた早々に長距離タクシー料金の交渉は厳しそうだ。暗澹たる気持ちでホテルに電話したところ、ドライバーは空港に行っているとのこと。僕の目の前にドライバーはいないと言い張ると、ドライバーに電話するから待っていろと言われた。

しばらくして電話をかけなおすと、ドライバーは空港ビルの外にいるとのことである。空港ビルの出口はマシンガンを持ったモロッコ兵が3名ほどで警備しており、そちらには近づかないようにしていたのだ。出口から出てしまったら、再び到着ロビーに入れなさそうだったし。

夏は暑い国なのに、本当にドライバーがビルの外で待っているのだろうか。イマイチ信じられないまま外に出ると、たしかに空港ビルの外に待ち合わせ用のテントが設置されていた。テロ対策なのか、旅客と職員以外は空港に入れないようである。やっとタクシーのドライバーを見つけた。

どうもモロッコは心理的に敷居が高い。それが故に自分の中だけで一悶着を引き起こし、余計な心配をし、時間を無駄にしてしまった。こういうのを独り相撲というのだろう。もう少しオープンな気持ちでモロッコに滞在してみよう。からりと明るいアフリカの空の下、ウジウジと反省しながらシャウエンに向かった。

でわのおもいで

今年も隅田川の花火の日に母親の友達が実家に大集合することになった。しかも今年は人数が増えるとのことである。花火の日は家から脱出したい。

去年は2か月以上前に通知が来て無料航空券で九州に逃げたが、今年は2週間前の告知だった。国内で行きたい所を思い浮かべてみたが、余市蒸留所、水牛の牛車で海を渡る由布島くらいしか思いつかない。しかし花火の日は夏休み期間中の土曜日である。北海道、沖縄などは2週間前に無料航空券が取れるわけがない。

せめて片道だけでも無料航空券が取れるところを探すと、三沢空港、庄内空港あたりだった。

三沢といえば下北半島の恐山である。ネットで調べてみたところ、三沢空港からは大湊線とバスで辿りつける。恐山菩提寺は地獄のような風景だが美しい。しかし積み重ねた石が酸化して崩れていく様とか、石の周囲の草地に結んである草のいわれとか、知れば知るほどストーリーが怖い。恐山は早々にギブアップした。

庄内空港からは鶴岡に出て、出羽三山に行ける。ここ数年は近所の丘しか登っていない僕に月山はハードルが高いが、夏の土日には臨時バスがあって、一日で羽黒山と湯殿山に行ける。

出羽三山の役割分担としては、月山が前世、羽黒山が現世、湯殿山が来世ということらしい。羽黒山と湯殿山に行けば、現在から将来に関しては何とかしてもらえそうだ。参拝的に一番ハードルの高い月山は前世であり、いずれにしても前世は今更どうにもならないのではないか。

今年は本厄なので、参拝だけでなく、厄除けをしてもらおう。出羽で生まれ変わるのだ。

そんな希望を持って4時に起き、朝一番の庄内空港行きANAに乗った。眠気以外に感覚がないまま庄内空港に着き、なんとか羽黒山神社の随神門にたどり着いた。神の世界への入口である。

随神門からは鬱蒼とした森に階段2446段の参道がある。途中、曇り空は小雨にかわった。森が傘の代わりとなり、適度な降雨が気持ちいい。早朝のせいか人は少なく、しかも石段が徐々に湿って良い雰囲気である。ゆっくり写真を撮りながら登って行くと、途中の茶店に着いたところで雨脚が強くなり、小休止。

雨が小雨になったところで再び歩きはじめた。鬱蒼とした参道を写真を撮りながら歩く。しばらく歩いていると、また雨脚が強くなった。本降りである。写真を諦め、速足で数分すすんだところで羽黒山神社に着いた。神様の御加護なのか、タイミングがいい。

ところで羽黒山から湯殿山へ行くバスは1日2本しかない。湯殿山神社を参拝する時間を考えると、実質的には1日1本である。羽黒山神社に着いたところで時計を確認し、脇目もふらず社務所に駆け込んだ。ずぶ濡れで汗ダラダラ、しかも息が上がっているオッサンが厄払いを至急で頼む。悪霊に憑依された哀れなオッサンが助けを求めているような、傍から見たら切迫感のあるシーンである。ケチなので最低金額で厄除けを頼み、それでも住所、氏名、年齢、厄除けの要望を神様に伝えてもらった。

無事に厄除けが終わって現世の平安を確保し、そして湯殿山へ行くバスにも間に合った。これで来世も安泰に違いない。バスに間にあわなかったら、鶴岡から酒田へ出て、土門拳記念館バー・ケルンという選択肢もあったが、生まれ変わった僕が取るべき道は今日の快楽よりも将来への投資である。

湯殿山のことは聞いてもいけないし、語ってもいけないとのことである。Wikipediaによると

松尾芭蕉も『おくのほそ道』における湯殿山の部分については、「総じてこの山中の微細、行者の法式として他言することを禁ず。よって筆をとどめてしるさず」と記し、「語られぬ湯殿にぬらす袂かな 」と句を詠むのみにとどめている。

よって僕も筆をとどめてしるさない。

ハバナでヘミングウェイの領域の一片を見たと思ったが、芭蕉の領域にも近づきつつあるのではないか。僕は出羽に来て生まれ変わったのだ。

鶴岡からは羽越本線で新潟に出て、新幹線で東京に戻った。缶ビールとワンカップを買い込んで、18時20分ごろ鶴岡を出る特急に乗った。この特急は日本海沿いを走り、この日の日没は18時50分頃である。しかも昼まで小雨だったのに、夕方から晴れた。車窓から見る日本海の夕景は感動的だった。

僕は出羽で生まれ変わった。美しい風景を見て素直に感動できる、ココロの清らかなオッサンになったのだ。ブログをやめて俳人を目指そう。

暮れゆく日本海を見ながら将来に希望を持ったが、片手にはワンカップの酒があり、変化の実感は乏しい。俳人ではなくて、廃人に向かいつつあるのではないか。もしかすると生まれ変わっていないのではないかという疑いと共に、新潟駅で追加の缶ビールを買って新幹線に乗り継いだ。

あいづのおもいで

2月のある夜、バーで飲んでいると知人から焼肉の写真を見せられた。薄い肉を囲炉裏で軽く焼き、しゃぶしゃぶのタレで食べるらしい。昨年、この知人の紹介で行った会津の温泉旅館だった。

囲炉裏と日本酒と会津牛、そして温泉。悪くない組み合わせである。僕も会津へ行こう。

冬の会津は寒い。囲炉裏だから寒い時期がふさわしいのだろうが、寒いのはイヤだ。しかも冬にはSLが運転されていない。

たぶん会津はゴールデンウィーク前後にならないと暖かくならないのではないか。しかしゴールデンウィーク前の会津は桜の時期で混んでおり、ゴールデンウィークそのものも避けたい。結局、梅雨前の5月中旬に行くことにした。

そういえば会津に行ったのは去年も5月中旬だった。1年たっても同じことをしている。

この1年を改めて振り返ってみると、毎日毎日が判で押したような生活である。

朝起きてイヤイヤながら会社へ行き、昼休みにはデスクで昼寝をし、夕方に帰宅して本格的に昼寝をする。なんとなく起きだして夕食を食べ、ウダウダとネットを見ていると深夜になっている。そして翌日もイヤイヤながら会社へ行く。

木曜日には近所のバーに行き、金曜日には実家近くのバーに行き、土曜日には銀座のバーに行く。日曜日には二日酔いしており、気付くと笑点の時間になっている。そして気が重くなる。

そんなこんなで一週間が終わり、気付くと次の週も終わり、再び気付くと翌月になっている。メリハリも緊張感もない日々。

そして1年後、同じ時期に同じ会津の旅館に行っている。しかも会津では同じ蕎麦屋を再訪しており、同じ鉄橋へ撮影に行き、そして去年と同じくSLに乗って新潟経由で帰った。

これからの一年間も同じような日々を過ごし、たぶん来年も5月に会津へ行って同じことをするのだろう。向上心も緊張感も進歩もないオッサンの、判で押したようなダラダラ人生。

ここまでくると様式美の世界である。歌舞伎、庭園に続く日本の美として、ダメオッサン人生を極めてみよう。