たいのおもいで

毎年、年末年始は仕事になり、1月に代休を取って旅に出ている。

今年はベトナムのダナンに行こうと思った。マイルを貯めることを前提に航空会社を選ぶが、しっくりこないスケジュールになった。ダナン滞在だけを考えると効率の良い日程なのだが、移動中あちこちで数時間ずつ無駄な待ち時間が出てしまう。休みに余裕があったので、行きをホーチミンシティー経由、帰りをバンコク経由にして、帰りのバンコクで一泊することにした。人生の大半を非計画的に過ごしているが、休みと旅行に関しては極めて計画的であり、昨年の秋には航空券の予約も済ませていた。

思い起こせば、初めて海外へ一人旅に行った先がタイだった。水上マーケットを見に行ったのだ。いまから25年ほど前のことである。

ところで僕のブログではタイに関する記述は極めて少ない。中国語圏を除くと、アジアの訪問先としては、ベトナムマレーシアシンガポールスリランカくらいだろう。飛行機の乗り継ぎにしても、シンガポールか香港にしている。旅行には頻繁に出かけているが、今回が人生で二回目のタイである。実際のところ、僕は注意深くタイを避けてきたのだ。

タイを避けていたのには理由がある。

そもそもタイ料理が苦手である。辛いものは得意ではないし、酸味の強い味付けは嫌いだ。甘酸っぱいという感覚は、味覚にしても、恋にしても、青春の思い出にしても、理解できない (表記上も「甘酢」の後に小さい「っ」を入れるべきなのか分からない。やはり理解できない感覚である)。

タイ料理についての知識がないままタイに行ったので、約25年前のタイ訪問時には初日の屋台で挫折し、結局、タイでの食事の大半をケンタッキーとハードロックカフェで済ませていた。

ケンタッキーでは二回目の食事の後にトイレを詰まらせ、逃げるように店を出た。ハードロックカフェは三回くらい行っても失敗なかったが、ハンバーガーばかり食べていてはアジア旅行をしたと言えないと思い、最終日は別の店にチャーハンを食べに行った。あの頃は未成年であり、チャーハンやカレーにグローバルな多様性があると知る前だった。今から思えば無駄な努力である。結局、ナンプラーもパクチーもイヤだった思い出を最後に、タイを去った。

その約25年前、タイに行ったのは9月くらいだったのだが、タイに着いて分かったことは、タイには雨季というものがあり、雨季は水上マーケットが休みとのことだった。僕の非計画的な人生において、この失敗が計画性の重要さを認識する第一段階になった。その後、休みと旅行に関しては計画的なオッサンに成長したが、それ以外の分野には計画性は拡大しないままである。

その後、改めて調べたところ、水上マーケットはバンコクから遠いので早朝から出かける必要があり、交通が不便なせいもあって、苦手な現地ツアーに参加しなくてはいけないらしい。約25年前の水上マーケットはローカル感の残る観光地だったのかもしれないが、既に水上マーケットは完全に観光地化されてしまっていた。旅行先で地元の市場に行くのは好きだが、観光地になった市場は最悪である。

つまるところ、僕にとってのタイとは、料理は苦手で、見たい所も実質的に無くなってしまった国である。故に僕はタイを避け続けていた。

今回、ベトナムからはスワンナプーム国際空港に着く予定である。この空港は約25年前には存在していなかった。前回は、成田から以遠権を使って飛ばしていたユナイテッド航空に乗ってドンムアン空港に着いたのだ。ノースウエスト航空と並んで、当時の直行便の最安だった思う。今時ならアジア系のLCCに乗っている筈だが。

当時からバンコクのタクシーは悪名高く、そもそも旅行自体がバックパッカーだったので、空港脇からボロい国鉄に乗って、バンコク市内のフワランポーン駅 (バンコク中央駅) に行った。バンコクには地下鉄もスカイトレインも無い時代であり、フワランポーン駅から歩いて宿に向かったのだろうか。そのフワランポーン駅には廃止の話があるようなので、今のうちに僕のタイの原点を見ておきたい。

こうやって思い出してみると、やっぱりアジアの25年は変化が大きい。

そんなブログを書こうと思っていたのだが、去年の11月末あたりから会社が異様に忙しく、結局、代休ダナン計画を挫折することになってしまった。休みと旅行に関してだけ計画的なのも考えものである。そのまま休まないのも癪なので、半日休みを捻出して建国記念日と組み合わせ、3.5日間の休みを創出した。この日程では元々の予定のダナンとタイは厳しい。ダナンは春くらいに仕切りなおすことにして、今回は行き先をシンガポールに変更した。タイは・・・このまま挫折だろうか。

僕にとってタイへの道程は遠い。

きたぐにのおもいで

夏が猛暑だったせいか、去年は10月上旬から体調が悪かった。こういう時の日本のオッサンには温泉が必要である。冬だし寒い所へ行こうと思い立ったのは、晩秋にあたる11月の事だった。寒暖の差が激しかったために暖かい日もあり、極寒のボストンに行く前でもあり、僕が寒さに対して寛容だった頃である。

寒い所といえば東北であり、東北に行くなら東北新幹線という思い込みで温泉地を探した。何度か秋田県の後生掛温泉に行った事がある。岩手県との県境に近い山の中で、東北新幹線の盛岡駅からも遠いので旅に出た満足感はあるが、冬は雪深い記憶しかないのでパス。その他の温泉地に関する知識はない。

よくよく考えると今や北海道新幹線の時代であり、新幹線で函館まで行くことができる。どうやら北海道新幹線は営業的に不振らしく、JR北海道の経営を圧迫しているらしい。経済系ブロガーとして北海道新幹線が有益なのか見極めたいし、できることならJR北海道の経営に貢献したい。

そういえば、同じ津軽海峡のマグロでも、大間の漁船に釣られると「大間のマグロ」になって高価だが、北海道の漁船に釣られたマグロには名義料がないのでコスパが高いと寿司屋のオヤジが言っていた。しかも漁船が大きいせいか、北海道側のマグロの方が状態がいいことが多いらしい。能書きは全くの受け売りだが、それでも道南か青森の温泉に行き、函館でコスパの高いマグロを食べることにした。

どこに行こうかと地図を見ていると、秋田北部に大館能代という空港があった。Wikipediaによると、道の駅が空港ビルになっているらしい。ということは、駐車場が駐機場も兼ねているのだろうか。前の道路が滑走路だったりするのだろうか。

東京からはANAが1日2便。出発1ヶ月前の予約なのに、新幹線で行くより安い。大館能代経由で青森までワープしても、JR北海道には悪影響がないだろう。

東京から秋田県経由で北海道に行く必然性が良く分からないが、土曜日の朝なのにガラガラのANAで大館能代空港に着いた。バスで大館駅に出て、そのままJRで青森県へ。搭乗率の向上に貢献しただけマシなのか、地元バス会社にバス代を払っただけマシなのか、僕の秋田県への貢献具合は良く分からないまま、秋田を去った。

翌日、青森から北海道新幹線で函館に行った。寒い。さすがに北海道である。

猿も馬鹿も僕も高い所が好きなので、例の函館の夜景を見に行った。いわゆる100万ドルの夜景であり、いわゆる世界三大夜景だが、その裏付けについては聞いたことがない。

ところで、函館の夜景というと、両側から迫る海岸の湾曲部である。函館に行く前々日まで、あの湾曲部は北海道南部、渡島半島の湾曲部だと思っていた。やっぱり北海道は雄大である。さすが世界三大。さすが100万ドル。すげぇな。

その話を母親にしたところ、そんな馬鹿に育てたつもりはないとのことだった。猿でも馬鹿でも僕でも見れば分かるだろうから、とりあえずロープウェーに乗って見てこいとのことである。

たしかに湾曲部は渡島半島ではなく、函館の市街地だった。一般的には百聞は一見にしかずと言うのだろうが、そもそも映像として見ていたわけで、むしろ猿も木から落ちるだろう。

それでも40年間ほどの誤解が解けたわけであり、北海道に来た意味があったと言える。北海道新幹線の経済的なメリットについては議論の分かれるところかもしれないが、北海道に対する理解を深めるという文化的側面において、北海道新幹線は有益なツールと言えるのではないだろうか。

長年の誤解が解けた後、函館の街に戻って寿司屋へ行き、津軽海峡のマグロを食べた。その他にも地元の海産物を色々と握りにしてもらい、地酒をたらふく飲んだ。タクシーに乗ってギリギリで空港に着き、最終便で東京に戻った。バス代の支払いだけで終わった秋田県とは比べ物にならない貢献具合である。

たった半日の滞在だったが、文化的にも経済的にも北海道に貢献できた。やはり北海道新幹線は有益である。

(地図の出典: 国土地理院・地理空間情報ライブラリー)

まさちゅーせっつしゅうのおもいで

ボストン滞在3日目にして最終日は、ボストン郊外の観光に出かけることにした。往復の移動こみで4日間のアメリカ往復である。本来であれば早朝から時間を有効に使い、街の探索に出るべきなのだろうが、あまりにもボストンは寒かった。ダラダラと昼前までと戯れていた。

まずはケンブリッジのハーバード大学に行った。サンクスギビング翌々日だが、有名大学だけあって、かなりの人出である。もっとも教職員も学生もサンクスギビング休暇で基本的に休みだろうから、キャンパスにいた人間の9割以上が観光客なのだろう。

訳知り顔でキャンパスを歩いてみたが、実際のところ、どこに何があるのか訳が分からない。次善の策として、入学を検討している風な顔をしてキャンパスを歩いてみたが、どう考えても大学入学前の若者には見えない。年齢的に無理があるせいである。

多数の優秀な人材が学んだキャンパスは趣があったが、ハーバード大学と僕との間の心理的な障害を除去できず、すぐに飽きてしまった。

大学のキャンパスを出て、サンクスギビングで暇を持て余したハーバード教員のような顔をして、ケンブリッジの街を歩いてみた。年齢的には悪くないし、暇を持て余しているような態度だったが、どうみてもハーバード大学の教員には見えない。理知的な顔立ちではないせいである。

結局、ハーバード大学を含め、ケンブリッジの街は楽しめなかった。若くもなく、理知的な顔立ちでもないせいだろう。一昔前を振り返って考えると、ロサン学生時代も大して楽しめなかった。その頃も理知的な顔立ちではなかったかもしれないが、少なくとも年齢的には若かった筈である。つまるところ、学校絡みの思い出とは、その程度なのかもしれない。

早々にケンブリッジの街を立ち去り、蒸留所の見学に向かうことにした。僕としては、こちらのほうがメインである。ボストンには数か所の蒸留所があるのだが、ウィスキー系が充実してそうなBoston Harbor Distilleryに行ってみた。

世界中どこへ行っても蒸留所は蒸留所であり、やっていることは基本的に同じなのに、興味は尽きない。一方、世界中どこへ行っても大学は大学であり、やっていることは基本的には同じなのだろうが、大して興味を持てない。

ハーバード大学に行って分かったことは、蒸留所と大学の大きな違いである。

それは表面上の、たとえばコアになる設備が蒸留器か図書館かというような違いだけではない (たしかに蒸留器の方が図書館よりも興味深いのは認めざるを得ないが)。

本質的な差異は、蒸留所の基本業務が酒造であり、大学の基本業務が学問であることに由来している。

そして、ハーバード大学で、その本質的な違い、つまり大学の基本業務という点において、オッサン人生にプラスの側面を見出すことができた。

確かに「知」というものは大切であり、人生における教養と見識の重要性は疑うべくもない。しかし、大学の基本業務には試験というものが付随しており、それは逃げることのできない大学教育の負の側面である。

いまや大学というシステムに縛られなくなった僕は、試験という制約なく、教養と見識を深めることができる。

今回のハーバード大学訪問を経て、僕もハーバードで学んだと言えるのではないだろうか。

(前回のボストン記事 こちら)