はわいのおもいで

ある日、ドクターしんコロから結婚する連絡がきた。

僕が彼の債権者であるわけではなく、彼が僕の債権者であるわけでもなく、あまり知らされても大して意味がないのだが。たぶん、社会通念上、連絡してくれたのではないかと思う。めでたいことである。OMG、と返した。僕は性格的に捻くれているのである。

その後、結婚式をするので来ないかと連絡がきた。

僕が彼の債権者であるわけではなく、彼が僕の債権者であるわけでもなく、あまり知らされても大して意味がないのだが。たぶん、社会通念上、連絡してくれたのではないかと思う。場所はハワイだそうである。OMG、と返した。僕はオブラートに包むことを知らない性格である。

なぜ人は連絡するのか。一義的にはモノゴトを伝える必要があるからだが (例: 今月の電気代は9720円です)、連絡の結果として行動を期待されており (例: 電気代は来月10日までにお支払いください)、然るべき行動を取る必要がある (例: お支払いない場合は電気を止めます)。

僕の場合も、連絡を受けた以上、連絡の結果として行動を期待されており、然るべき行動を取る必要がある。

ところで、ハワイに行ったことはない。ハワイといえばホノルルだが、ホノルルがハワイ島にはないことは知っている。それ以上の知識はない。

翻って、然るべき行動とは何であろうか。あちらこちら不必要な旅に出ており、今更、「行ったことがない」もしくは「大した知識がない」という理由でハワイに行かないというのは論理的に成立しない。

なにか論理的に成立するシナリオがあるだろうか。「カナダと相容れないから」というのは悪くないアイデアだと思ったものの、地図を見るとハワイの方が手前にある。

堂々巡りの論理的思索のかたわら、ちょっと調べてみると、金曜日に会社の後で羽田空港からホノルル行きの深夜便に乗ると、現地時間で金曜の昼にはホノルルに着くらしい。同じ週末で金曜の夜が2回。素晴らしい。

ハワイといえばアロハな感じである。派手なシャツを着て、午後の早い時間から海を眺めながらビールを飲んでいれば、なんとなく一日が終わる。

ハワイが天国に思えた。

僕の左脳が論理的思索をしている間、僕の右脳は航空券を予約していた。結局のところ、人間とは動物であり、天国のような誘惑には弱い。

そして、2月末の金曜日、ハワイに向かった。

金曜午後のハワイは快晴だった。日差しは強く、気温も高い。誰かが常夏の島と言っていたが、確かに体感気温は真夏のようである。にも関わらず、宿泊したコンドミニアムにはクーラーがなかった。2月の東京といえば極寒と相場が決まっており、着いた日の夜には夏のような天候のせいで弱り始めていた。昨夏のハバナのホテルが頭をよぎる。

結局のところ、天国のような場所などない。パスカルは「人間は自然のうちで最も弱い葦の一茎にすぎない、だがそれは考える葦である」と言っていた。人間であるが故に、左脳の働きがある。右脳に突き動かされてはならない。

人生の厳しさを思い知ったハワイの夕刻である。

しんねん

写真: 美しい夜明け (イメージ)

虚礼廃止とペーパーレスな人生をつきつめたところ、昨年、僕宛に届いた年賀状は7枚だった。バーと旅館を除くと、4枚である。つまるところ人生とはギブアントテイクであり、年賀状を返信しない人生によって、僕の真の価値は税込み208円と推定された。

正直ちょっと寂しい。

今更、僕自身の真の価値を高めるのは困難である。見た目の価値を上げるべく、アナログな習慣を再開し、人生をアベノミクスしてみようと思い至った。昨年の抱負である。

気付くと2016年になっていた。時が過ぎるのは早い。そして年賀状は書いていない。

昨年、年賀状に全く思いを致さなかったかと言われれば、そうではない。郵便箱には年賀状のチラシが入っていたし、どこかのタイミングで年賀ハガキを購入し、写真を選び、住所を印刷することは可能であった筈である。しかしアナログも虚礼も世間の習慣も人生のアベノミクスもないまま一年が終わった。

根本にあるのが、何かをスタートすることの難しさである。

今に始まったわけではないが、極めて社会性のない生活をしており、いまや年賀状を出すような相手の心当たりがない。全くないわけではないが、住所を知っているというだけの理由で、急に年賀状を送りつけるのも無粋である。なにせ送付先全員、10年以上のブランクがある。知っている住所が正しいかすら定かではないし、年賀状を出すにも言い訳が必要となってしまった。これでは、年賀状というより、年賀手紙になってしまう。

それに、年賀状の作り方も分からない。猿の写真はないが、初日の出を連想させるような写真を用意することはできる。実際には日暮れかもしれないが、おめでたいような雰囲気を醸し出している。余白に「謹賀新年」と書く。それ以上、何をすればいいのか。センスのある年賀状の作り方がわからないし、宛名印刷の方法も不明である。プリンターはあるが、センスがない。

今年、1月3日の夜までに届いた年賀状は3枚。そのうち2枚はバーからである。いまや僕の真の価値は税込み52円になってしまった。

深刻なデフレ人生である。

おはらい

11月下旬あたりから、どうも人生が芳しくない。オッサンたる者、人生は芳しくないものと相場が決まっているが、それを割り引いてもダメである。ロクでもないことばかり起きる。よくもこれだけ災難が発生したと思う。

僕には謹賀新年の心がわからない。謹賀新年の心はわからないものの、しかし、このまま年を越していいのかという気にはなる。テレビのコマーシャルでも、今年の汚れは今年のうちにキレイにしろと言っていたし、悪い流れは断ち切っておかないといけないのだろう。

苦しい時は神頼み。

お祓いに行こうと思った。近所の神社のホームページによると、厄除け、家内安全、商売繁盛などを随時受け付け、一件につき5千円から3万円とのことである。

厄年でもないのに、悪いことが重なったというだけで、お祓いをしてくれるのだろうか。しかも5千円から3万円という価格設定は幅が広すぎる。実際の値段は依頼内容によるのだろうか。悪いことが重なったと申告すると、カスタムお祓いなので3万円とか言われそうである。年齢詐称して、通常の厄年のお祓いに混ぜてもらうことも考えたが、神主には年齢詐称がバレなくても、神には年齢詐称がバレそうだ。なんといっても神は神様なのである。

決心のつかぬまま、それでも1万円札を1枚だけ握りしめて神社に向かった。足元を見られて3万円と言われても、ないものはない。ぼったくりバーではないので、見知らぬ借用書を書かされるとか、実はクレジットカードが使えるとかいうこともなさそうである。

近所の神社といっても、それなりに大きい神社であり、ちょっとした観光地でもある。社務所に行くと、お札やらお守りやらの販売が盛況だった。社務所の隅の方にはお祓いの申込書があったが、申込書の記載台はないし、ボールペンすら置いていない。神社の人は販売で忙しそうであり、雑踏の中、お祓いの相談と料金交渉をするには気がひける。

社務所を出て本殿に戻り、通常の参拝でなんとかしてくれるよう神様に依頼した。本来であれば懇願すべきであったが、観光客で混んでいたので、頼み込む時間がなかったのだ。

ちょっと奮発して御賽銭200円。なんとか手を打ってもらえないだろうか。