ねんがじょう

いつの頃からか年賀状の返事を出さなくなった。

基本的には虚礼廃止ということである。年に一枚のハガキだけが取り持つ人間関係。デジタルな時代、もうちょっと合理的にならないものかと思った。

しかし、つきつめて考えると、僕には謹賀新年の心がわからないのである。

年が変わったくらいで、なぜ祝うのか。そんなに新年めでたいのだろうか。そんなにハッピーなら、月が変わるごとに祝ってもいいではないか。日が変わることを祝って、毎日カウントダウン大宴会しよう。

良い年をお迎えくださいなどというが、良い年かどうかは終わってみるまでわからない。むしろ、良い年を終わることができますようにと、年末に挨拶するのがふさわしい。そうすると、今年はダメだったなぁと暗い気持ちになるから、そういう場合は酒場で一人さびしく飲むのがいい。

そんな後ろ向きの人生を過ごしていると、結果的に年賀状が7枚しか来なくなった。バーと旅館を除くと4枚。

ここに人間関係の本質を見た気がする。僕自身が礼を失したオッサンであるのは間違いないが、本質的に人間関係とはギブアンドテイクである。ギブしなければリストから抹消されてしまう。僕は、大多数の人にとって、返事をしなければ年にハガキ一枚程度の習慣性すらも維持してもらえないような、52円相当の価値もないオッサンなのである。

逆に言えば、2015年1月1日現在の僕自身の真の価値は208円 (税込) といえる。本体価格は193円だが、僕のために税金を払ってくれるのだから、税込価格が僕の価値と思っていいはずである。

208円程度の男。このままでは死んでも誰も葬式に来てくれなくなる可能性がある。非合理的でもいいから、虚礼でもいいから、アナログを再開しよう。謹賀新日のハガキを毎日だそう。そして一人あたり18,980円の価値のある男になろう。僕の価値もアベノミクスしてみよう。

これを来年の課題としたい。

としのくれ

12月に入り、今年を振り返ってみると、あまり芳しくない一年だったとの思いに至る。ここ数年、同じような結論に達することが多いが、それでも大相撲風に言えば8勝7敗で何とか勝ち越していたのが、今年は負け越した気がする。

そんなことを考えながら街を歩いていると、ふと、人生に寂しさを感じた。人間としての至らなさに思いいたり、冷たい北風の中、人通りの少ない道を背中の丸めてトボトボ歩く。哀愁というよりも、もはや哀臭の漂うオッサンである。このままで良いのだろうか。

それではダメだと思った。まだまだ枯れるわけにはいかない。草食系はダメである。ガツガツと肉食系なオヤジになろう。

が、しかし、ぼくはオッサンである。オヤジたちほどのバイタリティはない。早起きは苦手だし、いまさら社交的になるのも大変だし、本格的な自己改革は難しそうだ。千里の道も一歩から。まずは簡単なところからスタートだ。

近所の定食屋はやめて、トンカツ屋でカツ丼を食べよう。そう思った。肉肉しい揚げ物、卵、そして大量の白米。上カツ丼の大盛だ。

胸を張って定食屋を通り越し、トンカツ屋に向かう。

が、しかし、トンカツ屋は休みだった。

が、しかし、トンカツ屋が休みだからといって、このままオメオメと引き下がっていいのだろうか。

次善の策として大戸屋に向かった。カツ重なら大戸屋にあるはずだ。この際、カツ丼もカツ重も同じではないか。

大戸屋にはメニューがある。メニューにはカロリーが書いてある。そしてメニューがあるということは、選択肢があるということである。人生に対する疑問は脇によけておき、生活習慣に対する疑問が湧き上がる。

・カツ重なんて食べていていいんだろうか。せめてトンカツにすべきではないだろうか。
・ブタ肉なんて食べていていいんだろうか。せめて鶏肉にすべきではないだろうか。
・揚げ物を食べたのに、さらに白米を食べてもいいんだろうか。五穀米にすべきではないだろうか。

いつの間にか「唐揚げ定食、五穀米、ご飯少なめ」と注文している自分自身がいた。揚げ物という以外、上カツ丼大盛とは何の関わりもない。

そして唐揚げを前に、再び人間としての至らなさについて考えた。人生の改革は難しい。バイタリティも決断力もないが、しかし何かしなくてはいけない。千里の道も一歩から。だ。

とりあえず早起きでもしてみようと思った。早起きして朝食を食べたら、人生変わるかもしれない。ふたたび安直なスタート。

翌朝、ふと気付くと普段の起床時間だった。寝すぎた頭で呆然としていると、出勤時間に間に合わず、タクシーで会社に行った。

やっぱり自己改革は難しい。

ちゅうかがい

オッサン友達と横浜バーめぐり。途中、汁物を求めて夜の中華街を歩いていたが、どこに入ればいいのか分からない。

ふとみると、ポツンとボロい中華料理屋があった。入り口を覗くと、テーブルの上にビールの空き瓶が放置されている。

キリンラガーの大瓶。奴が呼んでいる。そう感じた。

店に入ると、コックの格好をした爺さんが一人、新聞片手に座っている。

店全体が切ない場末感で溢れている。

ビールとワンタンを頼むと、爺さんはビールを出し、店から出て行った。

地味な食堂にオッサン二人取り残される。ラジオの深夜放送がかかっていた。空虚なジョークが響く。切なさは既に痛々しい程になっている。

ラジオに飽き、ビールにも飽き、地上の営みから取り残されてしまったのではないかと思い始めた頃、爺さんがワンタンを持って店に戻ってきた。店に入ってワンタンを頼んだのに、爺さんは店の外から出来上がったワンタンを持ってきたのだ。

宮沢賢治の世界のようだった。