すとれっち

前屈の屈は屈服の屈である。

ゆえに前屈はしない。小学校のときに前屈マイナス28cmという小学生史上に残る屈辱的な記録を残して以降、すべての前屈を拒否し続けてきた。ブルボン王朝の皇帝のような気高さである。余は決して屈しないぞ。

しかし屈めないのも屈辱的である。飛行機で物を落としても到着するまで拾えないし、足の爪を切るのですら一苦労である。しかも老化すると関節の可動域が減るとのことである。このままいくと飛行機に乗れなくなるかもしれない。爪が長過ぎて靴が履けなくなるかもしれない。

前屈の屈は屁理屈の屈だ。

いい加減にオッサンだし、そもそもブルボン皇帝ではない。飛行機は自家用ではないし、輿を担いでくれる家臣もいない。ゴタクを並べている前に前屈しよう。

そう思ってストレッチスクールに行った。家臣ではないが、トレーナーが足を支えるなり、腕を動かすなり、なんなりとしてくれるらしい。余は横になっておればよいのだ。偽ブルボンには最適に思えた。

写真で見るとかなり楽そうだったので、軽い気持ちで行ってみた。どっかの大学の体育サークルみたいな軟派な兄ちゃんがトレーナーということだった。美女インストラクターはメニューになかった。偽ブルボンだからしょうがない。

軽いジャブのように前屈をしろという。若輩者のくせに余に屈しろというのか。オッサンすごいだろ。マイナス31cm。

彼は、あんまり運動しないんですね、と言ってくる。余は運動などしないのじゃ。オッサンすごいだろ。全くしないのだ。

さあ屈したから後は任せたぞ。好きにするがよい。

しかし、そこから先が地獄の苦しみだった。責め苦を味わう。こんな兄ちゃんに虐げられてなるものかと思ったが、圧政下の庶民のように過酷な時間を過ごす。そろそろ王制はやめて共和制に移った方がいいんじゃないか。

圧政の苦しみのさなか、硬いのは股関節ではなくて、臀部と足の繫ぎ目部分であると笑顔でいわれる。そんなのはどうでもいい。おまえはマリー・アントワネットか。パンをよこせ。

地獄の苦しみから解放されると、既にヘトヘトだった。革命を起こす気力はない。ナポレオンへの道は遠い。

すいすのおもいで

誰が決めたか知らないが、夏の海は何故か暑い。太陽は燦然と輝いているので日焼けもする。ビーチを歩くと靴に砂が入るし、海は泳ぐと塩辛い。

だからこそ人間は室内プールを発明したはずなのだが、それでも夏のビーチは盛況だ。ニースもアマルフィも夏はセレブ値段である。そんなにトップレスおねいさんが見たいのか。

合理的な判断をするのであれば、夏は山に行くべきだと思う。なにより涼しいし、木陰に隠れれば日焼けは防げる。運が良ければホテルに室内プールがついている。

問題は、山は登らなくてはいけないことである。そこに山があるから登ると言った人もいたらしいが、そこに階段があるから積極的に登るという話は聞いたことがない。むしろ人間はエレベーターやらエスカレーターやらを発明した。登ることは文明の力で避けるべきことなのだ。

スイスには登山鉄道が走っている。これは、人類史上、室内プールと並ぶ画期的な発明といえる。山に登らずして、3000メートル級の山に登れる。スイス人のアプトさんが考えたアプト式で電車がグイグイ登ってくれるのだ。ビバ・スイス。ビバ・アプト。

残る唯一の問題は、気温が低いせいか、山にはトップレスおねいさんがいない。この問題の解決には地球温暖化がカギとなる可能性があるが、地球温暖化のもたらす影響については、スイスの連邦制なみに複雑なので予断は許されない。

なつやすみのおもいで

オッサンふたりでゴールデンウィークにベネチアへ行こうと思って挫折した後、夏休みスペイン作戦に切り替えたが、イマイチ決めきれないままオッサン旅行は当面ギブアップ。

一方、ふと気付くとカールツァイスの高級レンズを買っていた。買ったからには使わないといけない。高級レンズに見合う絶景に行こう。そう思って絶景ポイントを探した。

絶景といえばウユニ塩湖に行ってみたいが、ちょっと調べただけでボリビアは遠いとわかる。近場の絶景といえばマリーナベイサンズ・ホテルのプールに行ってみたいが、よくよく考えると単なるプールである。しかもプールを撮りに行ったのに、プールで盗撮オッサンと化す恐れもある。そしてシンガポールは暑い。

夏の涼しいヨーロッパへ大自然を見に行こう。ただし海は盗撮オッサン化問題があるので、山に行くしかない。

山といえばスイス。ジュネーブから鉄道に乗り、マッターホルンの麓の村へ。マッターホルンの見えるロッジで3泊、帰りにレマン湖畔のリゾートで1泊するつもりだったが、天気予報を何度見ても、いまいちマッターホルン界隈は天気が良くない。天気予報の精度は改善が期待できるが、予報の内容は改善できない。それが分かっていても、天気予報を見てしまう。結局、湖畔のホテルを期限ぎりぎりでキャンセルし、ロッジに延泊することにした。

そこまでして絶景ポイントに行ったとしても、絶景を見られるとは限らない。雲の位置は刻々と変わり、雨が降る日もある。朝は夜明け前に早起きをしないといけないし、夕食の時間をずらしてでも日没を見ないといけない。

水曜日にマッターホルンの麓の村に着いたが、山の頂には若干の雲がかかっている。木曜も然り、金曜日は雨。祈るような気持ちで土曜日を迎えると、晴れていた。

朝食をパスしてハイキングに出かけた。湖にマッターホルンが映っている。息をのむような光景は、絵に描いたようである。とはいえ、実感は乏しい。風で水面が揺れると、水面の像も崩れる。風の止む瞬間を待たなくてはいけない。景色に心を奪われるべき時に、ぼくの心は風に奪われていた。

購入前にカールツァイスのレンズは使いこなすのが難しいと言われたが、たしかにカールツァイスは難しかった。