ねんがじょう

いつの間にか昨年は終わり、気付くと正月になっている。成長を見守る必要があるのは自分の腹回りだけの独身オッサンになると、一年こんな風に無意味に過ぎる。

日本の正月には年賀状が届く。子供じみているかもしれないが、毎年、年賀状の枚数から僕の価値を推計していた。2016年には実質的に2枚の年賀状だったので、僕の価値は104円相当と推計された (ブログを書いた後に1枚届いた)。オッサン人生デフレ状態である。

年賀状の受取が減る過程を分析すると、年賀状とはギブアンドテイクではないかとの仮説に至った。返信を出さないでいると、いつの間にか年賀状は来なくなる。年賀状の損益分岐点は人によって異なるものの、どこかの時点で僕が不良債権化したと判断され、送付リストから漏れる。一枚、また一枚と、四谷怪談のように年賀状が減っていく。これこそデフレスパイラルである。

こうなると景気浮揚策を講じる必要があり、リーマンショック時のように積極的な財政出動が求められる。投資によって僕の価値を上昇させたい。そして、昨年は11枚の年賀状を出した。住所を知っている人の全てである。11枚 x 52円 = 572円相当だ。自分自身の価値の5倍以上である。野党からはバラマキ政治と批判を受けそうだ。

その11枚を投資と考えると、受け取った枚数はリターンということになる。昨年の投資の答えが出るのが今年である。割引率や償却期間を考えない場合、(2018年に受け取った枚数 – 2017年に出した枚数) x 52円によって、2018年1月現在の僕の価値が分かるはずである。

ハイリターンなオッサンでありたい。そんな思いで元旦を迎えた。

郵便箱を見ると年賀状は4枚だった。そのうち3枚は飲食店からで、これらは僕の価値というよりも、広報宣伝活動に類するものである。故に僕自身の価値を示す指標としては、1枚ということになる。1月3日以降にも1~2枚は届くだろうが、昨年の投資にも関わらず、結局のところ枚数的な増加はなかったと言っていいだろう。むしろ僕自身としては、過剰な投資のため簿価はマイナスである。もっと慎重に投資すべきだった。技術力やキャッシュフローのある大手企業も、こうやって潰れていくのだろう。

新たな問題として、今年は返信を出すべきだろうか。

こんな投資効率の悪い僕に、更に無駄な投資をすべきではないという立場からは、年賀状の返信を出すべきではない。出しても出さなくても結果は大して変わらないのだ。むしろ、返信を出さなければ僕の簿価がマイナスになることはない。二期連続して僕の簿価がマイナスになるリスクは避けるべきである。ここは無意味にリスクを取る場面ではなく、規律ある財政が必要なのだ。

一方、僕自身の価値の下支えが必要という立場からは必要最小限の投資が必要で、つまり返信くらいは出すべきである。これまでの知見によると、返信を出さない限り年賀状は減り続ける。このままではゼロになってしまう。無価値なオッサンとは、抗うことすら叶わない、飼い殺しのような状況ではないだろうか。ある意味、マイナスより悪い。

さらに無駄な事業からは早急に撤退すべきという説も出てくる。たしかに簿価はマイナスのオッサンである。昨年の過剰投資を考えなかったとしても、104円程度の価値しかない。しかも改めて指摘するまでもなく、大して世の中の役には立っていない。とは言うものの、いくらなんでも人生から撤退するには早すぎるのではないか。

正月早々から悩ましい。

しかも1月7日までに年賀状を出さないと、郵送料が10円高くなるそうである。10円と言われると大したことはないが、単価20%増と言われると、脆弱な収益基盤においてはコスト的に重大なインパクトがある。

早めに決断すべきか、単価増のリスクを受け入れても熟考すべきか。人生のファイナンシャルプランナーが欲しい。

冬休み特別読み物:語学学習

いまどきは小学校から英語を学ぶらしい。その昔、小学校でローマ字を覚えさせられたときには、漢字以外にも文字を覚える必要があることに衝撃を覚えたのだが。

いずれにしても学校では半強制的に英語を勉強させられ、それはそれで人生における現実的な選択肢である。

複数の言語を操るのは難しい。語学学習とは人生における長期的な投資のようなものである。人生を豊かにするという側面から、英語以外に何語を学ぶべきかを考えたい。

とりあえずは中国語が無難であろう。転職サイトをみると「中国語スキル尚可」などと書かれていることが多く、有利そうである。生活力という面からは悪くないと思う。

趣味の面から考えてもいい。快楽主義的な僕の場合には、学ぶべき言語は旅行先の傾向と同じになるだろう。フランス語、スペイン語、もしくはイタリア語だろうか。

フランスに行くと、レストランには英語のメニューがないことが多く、フランス語の必要性を痛感する。昔、羽田に国際線がなかった時代から、22時頃に成田を出るエールフランスの深夜便を活用しており、パリのドゴール空港に降りたった回数は半端ない。これだけパリに行っていれば自然に言語くらい習得できるかと淡い期待を持っていたが、結果的にフランス語は習得できていない。空港に降りたつだけではダメだった。

バル好きとしてはスペイン語は欠かせない。バスク地方のバルであれば、目の前の皿を指さすだけで十分なので、大して話す必要はない。しかし、それ以外の地方では料理を注文する必要があり、黒板が読めないと、ありきたりのものしか食べられない。学生時代にはヒスパニック系住民が多いカリフォルニア州に住んでおり、しかも僕は見た目がメキシカンぽい。極めて自然に使用できたはずではあるが、まったくと言っていいほど話せない。見た目だけではダメだった。

イタリア語も微妙である。フランス語もスペイン語も数語程度の語彙力だが、それだけでも手一杯である。ある日、アマルフィでカフェに入ったが、そんなところでは英語で何とかなるのである。しかし、それに甘えてはいけない。イタリア語をしゃべってみようと思った。エスプレッソが出てくる前に必死で思い出し、最後に歌舞伎の見得のように「グラシァス」と言った。ツケが打たれるかと思いきや、カフェのオヤジに苦笑された。たぶん僕には歌舞伎座よりも鈴本演芸場、ツケよりも出囃子の方が似合う。

やっぱり言語習得はハードルが高い。すでに40歳台に突入しており、脳の柔軟性も、記憶力も弱くなってきている。努力せずに言語を習得する方法はないものだろうか。

なつ

やっと8月が終わった。

出勤時に勤務先のビルに入った後、夕方まで一歩もビルから出ない生活をしている。あまり夏の気温や湿度は関係ないし、そもそも今年は基本的に天候不順だったが、8月の終わりとともに夏も一段落な気がする。

昔から極度の暑がりのせいか、夏はキライである。それでも登山が趣味だったころは、カメラを持って北アルプスを目指していた。

いつの頃からか登山には興味を失い、ビールを持って海辺を目指すようになった。とは言うものの、体型的に水着では醜悪であり、実際のところはビールを求めて海辺の酒場を目指している。

しかし海辺の酒場に毎日行くわけにはいかず、基本的には街中の酒場で誤魔化さざるをえない。結局、それは普段と同じなので、キライな夏を乗り切るためには気晴らし的なイベントが必要である。

今年の夏は7年ぶりに隅田川の屋形船に乗った。前回と違うのはスカイツリーができたことで、浅草あたりまで行ってスカイツリーを眺める時間を取ってくれる。

その他にも、寿司屋で冷酒を片手にシンコを食べたり、普段は1人で行く蕎麦屋に知人をよんで日本酒を痛飲したり、近所の居酒屋の座敷でゴロゴロしながら濃いめのハイボールを飲んで泥酔したりと、とにかく酒ばかり飲んでいた。

子供の頃、夏休み中にはアイスを食べすぎないように釘を刺されたが、オッサンになって怠惰に酒を飲む夏を過ごしている。暴飲暴食こそ、戒められていた快楽である。

戒められていた快楽といえば、海辺で盛り上がる不純な恋というのをやってみたい。

しかし、それには生活習慣の見直しが必要である。外に出ることもなく、カロリーを蓄積する毎日。これでは腹が出たままで、水着が似合わないままだ。仮に水着が似合ったとしても、海辺にはクーラーがないし、日焼けも痛い。しかもサーフィン位できないとダメかもしれない。かなりハードルが高い。

海辺の不純な恋は諦めるしかない。やっぱり僕は夏がキライだ。

夏は終わったのだ。僕には冬がある。いまこそ冬に目を向けよう。

冬と言えばゲレンデの不純な恋を思い浮かべてみたが、体が硬いせいかスキーができないことを思い出した。スキーを履いてリフトから降りるだけで一大事だった。20年以上前の話である。しかもオッサンになったら寒いのもキライになってきた。

僕には冬もダメそうだ。

夏という暗闇の先にトンネルの出口を見たと思ったが、その先には別のトンネルがある。人生はトンネルだらけだ。