きゅうさいこうのおもいで

仕事で中国・四川省へ行く事になった。僕にとって、初の中国内陸部だ。

僕は辛い食べ物が苦手である。昔、香港で四川人向けの四川料理店に行ったのだが、とにかくピーピーになって非常に後悔した。その後も、中国本土で四川料理店に何度か入ったが、同じような後悔を繰り返している。それなのに現地に行ってしまっても良いものだろうか。

四川省には世界自然遺産に指定されている絶景の「九寨溝」がある。実際、COVID-19流行直前には旅行希望リストの上位に入っていたのだが、その辛くて辛い思い出があったので躊躇していたのだ。

今年になってビザなし渡航ができるようになり、それでも何度か引き延ばした挙句、出張日程が決まってしまった。せっかく四川まで行って、仕事ばかりでは芸がない。最初はパンダを見に行く程度で考えていたのだが、結局のところ僕は僕なので、無理やり数日ねじ込んで九寨溝へ行くことにした。パンダは午前中しか起きていないらしいし。

オッサンはオシャレサンではない。ジョギングを挫折した為に放置しているランニングシューズを除くと、黒の革靴1足と水色のウォーキングシューズ1足で暮らしている。いくら出張先での仕事日数以上の私的旅行をねじ込んだ僕でも、さすがに水色のウォーキングシューズで出張には行けないし、黒い革靴ではトレッキングも無理である。航空券が発券された日、型落ちして安くなっていた黒いウォーキングシューズを購入した。これなら出張先でも何とかなるだろう。

小学校の遠足のしおりに「履き慣れた靴」と書いてあったのを思い出し、旅行前まで新しい1足で過ごした。靴の数が増えただけマシなのか、2足すら履き分けなくなって劣化したのか。オシャレサンではないオッサンの履いている靴など、誰も気にしないだろう。

新品のトレッキングシューズで出張を無難にこなし、旅の起点は成都だった。渡航制限期間が長過ぎたせいで、日本語の中国観光情報は5年以上前から更新されていないケースが多い。九寨溝には航空機かバスで行くものだと思っていたが、四川省内の成都にしても重慶にしても、ほとんどフライトがない。調べてみたところ、どうやら昨年になって高速鉄道が開業したらしい。出張先の中国人スタッフも知らなかったのだが。

早朝、九寨溝へ向かう一番列車に乗るべく、成都東駅に行った。外国人も完全チケットレス対応になっており、一部の改札機でパスポートを読み込ませれば通過できるようになっていた。もっとも九寨溝路線は外国人比率が高いせいか、パスポート対応の改札機だけ異様に混んでいたのだが。

出張先で個人旅行する最大のデメリットは日程だろう。出発直前に天候次第で日程を変えるわけにはいかず、とりあえず丸2日を九寨溝で過ごせるようにして、好天を待つことにした。どこまで中国の天気予報を信じていいのか分からなかったが、どうやら初日しか晴れない予報である。

成都東駅から九寨溝まで、高速列車と車で4時間以上の行程である。途中の黄龍九寨駅で乗り換えた時の30分くらいしか記憶にないが、なんとかホテルに到着した。関係者に予約代行を頼んでおいたのが効いたのか、チェックイン時間前だが部屋を用意してくれた。予報通りの晴天である。

晴天を有効活用すべく、部屋に荷物を置いただけで九寨溝へ向かった。好天の予報が続くようであれば、ゆっくりトレッキングをしようと思っていたのだが、イマイチな天気予報なので、この日のうちに見どころを一通り巡ってみることにした。九寨溝内には電気バスが運行されているが、運用がイマイチ分からず、かなり歩いた。初日だけで26kmである。

中国有名観光地の例によって、九寨溝はメチャクチャ混んでいたが、さすがに26kmも歩けば静かな湖を眺めることができた。九寨溝で有名なのは、深い水色の湖底に横たわる枯木だと思っているのだが、群衆から遠ざかって美しい湖を眺めていると感慨深い。もっとも感慨に浸る間もなく歩き続けていたのだが。

この日は午後から曇り始め、山は雲の奥に隠れてしまった。そして夕方には小雨が舞い始めた。出張中は四川料理を食べ続けており、僕の胃腸は相当に参っていた。いい加減、マイルドな広東料理が食べたい。残念ながら九寨溝周辺のホテル街では広東料理店を見つけることは出来なかったが、マクドナルドがあった。吸い寄せられるようにM字に向かって歩いて行った。

翌朝、起きてみると相変わらずの小雨である。疲労が溜まっていたこともあって二度寝。ついつい朝食の時間を逃してしまった。このままホテルでグテグテしていても意味ないので、入場券に指定された時間枠ギリギリで再び九寨溝へと向かった。

まったく期待せずに電気バスに乗っていると、雲の切れ目から太陽が覗き始めた。この日は風もなく、湖面は文字通り「明鏡止水」である。次第に山も見えるようになり、気付くと湖面に雪を抱く山が映っていた。もはや絶景である。この日の晴れ間は午後の数時間だけだったが、調子に乗ってしまい二日目も結局18km歩いた。

夕方、ホテルに戻ろうとするが、夕立が発生した。電気バスが急に混み始め、トレッキング途中のバス停には止まる気配もない。傘を持っていたのでマシだったが、バス待ちで1時間くらいスタックした挙句、ずぶ濡れでホテルに戻った。

もう疲労困憊である。文字通り明鏡止水の九寨溝を見ることができたが、僕の心身は明鏡止水からは程遠かった。それでも逆よりは素晴らしい結果である。