かなだのおもいで

ハバナを朝8時のエア・カナダに乗ると、ほぼ定刻の11時半にトロント着。ここからNYに行ったのだが、トロント発15時の航空券を持っていて、あくまでも通過での入国なのに、かなりの犯罪者候補扱いである。

人生初、入国管理と税関で別室検査。たまにテレビの特番で顔にモザイクかかっているヤツである。スルドイ質問で犯罪者が暴かれているアレである。

なんでスヌーピーを持っているのか聞かれ、なんでキャットフードを持っているのか聞かれ、なんでNYに知り合いがいるのかを聞かれた。ハバナで何をしたのか日付順に聞かれ、デジカメの写真を全部見られ、スーツケースの内張の裏側まで調べられる。パスポートのスタンプも多いし、キューバ帰りだし、たぶんプロファイル的に怪しいということになっているのだろうが、絵日記を書き忘れた小学生相手みたいな質問ばかりでセンスがないし、アホっぽい。最後の方には未使用のSDカードを怪しまれたりと、三流スパイ並みの扱いである。

アメリカとイギリスあたりは比較的厳しいと言われているが、ここまでカナダで引っかかる日本人はいないのではないだろうか。カナダといえばサーモンとメープルシロップくらいしか想像できない素朴で平和な国だと思っていたが、冷戦時代の自由主義社会の砦のようなハードさ具合である。

不承不承、あるいは止むを得ず、入国を許可された。キューバからカナダ経由でアメリカまでの航空券を通しでは買えないので、こちらとしても不承不承、あるいは止むを得ず、カナダに入国するわけで、まったくもってlose-loseなディールである。

トロントからアメリカ行きに乗ると、トロントでアメリカの入国審査と税関検査も行われる。税関申告書でキューバの滞在を申告したものの、まだ経済制裁中にも関わらず、ほぼ無反応で入国手続きが終了。

そんなこんなあったものの、スタンバイで一本前のNY行きにギリギリで乗せてもらった。アホっぽい一面はあるものの、物事が効率的にできているカナダである。

はばなのおもいで

数年前にハバナに来た時にロビーのバーが気に入ったというだけでホテルを決めたところ、そこはヘミングウェイが定宿にしていたホテルだった。しかもヘミングウェイの3部屋くらい隣の部屋をあてがわれた。

しかし、このホテルは大作を書いたホテルとは思えない。

たしかにハバナ旧市街のクラシカルなホテルである。ヘミングウェイのせいか、彼の部屋のある5階は観光客であふれており、僕が部屋で窓を開け放してゴロゴロと裸で過ごしていると、廊下でうら若き日本女性の声がする。しかし僕の部屋を訪ねているわけではない。

部屋には、もちろんバスもトイレも付いているが、ヘミングウェイゆかりの宿にしては水圧が弱いし、そもそも国際的に湯と認められるような液体は蛇口から出てこない。時折、ハバナ基準で湯と呼ぶようなものが蛇口から出てくることもあるが、それも運次第である。

この原稿を書いているのは9月上旬の晴れた日、夕方18時過ぎであり、ホテルの窓を開け放しているのは、冷房の効きが悪いからである。実際のところ、いい年こいたオッサンであり、湯の出ない部屋とか、クーラーの効きの悪い部屋とかは正直しんどい。

こんな部屋だから、3部屋分の窓を移動した以外は1930年代のヘミングウェイと同等の条件であることは想像に難くない。僕自身は昼間から飲んでいるが、ヘミングウェイも昼間から飲んでいたのではあるまいか。

ハバナの、ほぼ同じ部屋で、やや酔っ払ってキーボードに向かっている我々 (別名: ヘミングウェイと僕) である。

しかし僕とヘミングウェイには大きな差がある。僕は小説というものを書いた事がない。小説にはプロットというものが必要らしいのだが、ハバナ旧市街の市場では売っていなかったのだ。

そもそもヘミングウェイは温かい湯とキンキンに冷えた客室を求めていたのだろうか。温かい湯を捨て、涼しい部屋を捨て、ハードホイルドを追求した先にこそ、文筆活動における成功点があるのではないか。

湯が出ないとか、エアコンの効きが悪いとか泣き言を言っている場合ではない。創作の厳しさを思い知ったハバナの夕刻である。

はーどぼいると

いつの頃からか野菜市場が好きになり、旅に出て機会があると市場に行っている。

ハバナには中央市場があるらしいが、ちょっと旧市街から遠い。諦めつつも旧市街を歩いていると、小規模な市場があった。壁には野菜やら果物の絵が描いてあったり、チェゲバラの絵が描いてあったりと、まさにキューバの市場である。ちょっとウロウロして、写真を撮って帰った。

なんとなく忘れられなくて、翌日、もう一度行ってみた。

正午前あたり、市場に向かう途中で廃墟のようなボロボロのビルから不健全な匂いを感じた。午前中には嗅ぐべきではない、猥雑ではあるものの、しかし猥褻ではない匂いである。なにかが僕を呼んでいる。

バーである。入り口でためらっていると、酒が呼んでいる。

バックバーにはスコッチからウオッカ、ラムまで、ありとあらゆる酒があるが、ほとんど全て空瓶である。中身の入っている酒は、ハバナクラブのアネホ・ブランコと、正体不明のキューバ国内消費用のラムだけである。ハバナクラブは2本だけ置いてあるが、誰も飲んでいないし、売る気もないようだ。実質的に唯一の営業用の酒は国内用ラムである。ハバナクラブ3年のように、ほんのりと色がついているが、ペットボトルに入っているし、どう見ても安酒である。

このバーのルールはシンプルである。ラムのストレート。それしかない。オンザロックやソーダ割りはない。もちろんモヒートもない。

唯一の選択肢は、シングルかダブル。シングルというと、ショットグラスで測って2杯分 (定義上、それはダブルと称するのではないかという疑問はさておき)、それが空き瓶を加工したグラスに出てくる。ハバナクラブの空き瓶をカットし、下半分を再利用したグラスである。屋台のおでん屋に行くと、大関ワンカップの空コップに安酒が入ってくるが、そんな風情である。グラスを洗っている気配はあるものの、洗剤を使用した気配はない。希望すれば、別にチェイサーらしきものをもらえるようであるが、それも単なる水道水である。

店には無愛想なバーテンダーが一人おり、顔見知りの客とは少しばかり話をしている。あとはキューバ人同士といえども大した会話もなく、むっつりとタバコを片手にストレートのラムを煽っている。

ダブルのようなシングルのラムが兌換ペソで2ペソ。もちろん僕以外の客はキューバ人であり、彼らは人民ペソで払っている。

究極、バーに必要なものは、カウンター、椅子、バーテンダー、それに酒だけである。この店は、それら全てを揃えているものの、それ以上のものは無い。

この店に氷やソーダはない。ナッツやら、つまみになるようなものもない。音楽もテレビもない。扇風機はあるが、これはバーテンダー用である。唯一の追加的なサービスといえば、トイレと灰皿である。トイレは廃墟の奥の方にぽつんとあり、灰皿は空き缶の下半分を再生したものだった。バーとして必要最小限ではあるが、しかしバーとして十分である。居心地も悪くない。

このバーのルールはシンプルに酒と向き合うことである。

陽射しの厳しいハバナの昼前、しかし陽の当たらないボロビルの一角で、ハードボイルドという言葉を再認識した。