2010/10/23 くれじっとかーど

水曜の夕方にクレジットカード会社から電話があり、深夜に1台15万のビデオカメラを買ったか聞かれた。それも2軒で2台。

動画の趣味はない。もっとも、趣味があったとしても、1度に2台もいらないだろう。何を撮るんだ。

不正使用されてますねぇ、なんていわれた。まぁ、確かに。僕が使っていないのだから不正使用だろう。

そして僕のマスターカードは取り上げられた。再発行するとのことである。

翌日、昼間に別のクレジットカード会社から電話があった。深夜に1台15万のビデオカメラを買ったかといわれた。今回は1軒で1台。

だから、動画には興味ないんだから。

で、こちらも取り上げられて再発行である。

ただし、こっちはSuica定期券機能付きだから再発行までが異様に面倒くさい。

Suicaを停止しに駅に行かないと再発行のプロセスを開始できないらしい。

Suicaを停止すると、JR東日本がJR東日本に「このひとはクレジットカードを不正利用されたカワイソウな人なので、定期を再発行してあげてくれ」という証明書を発行する (と言われた)。これは僕の自宅に郵送されてくるらしい (まだ来ない)。この証明書を持って駅に行くと、自動改札を通れる仮定期券を発行してくれるらしい (あまりにフクザツな話の一部なので、このあたりからは説明を理解できていない可能性もある)。

それまでは、元々はクレジットカードであり、Suicaであるものの、現実にはクレジットカード機能もSuicaの機能もないプラスチック板を駅員に見せて有人改札を通らなければいけない。

話によると、仮定期券をもらい、更にクレジットカードが再発行された時点で、仮定期券とクレジットカードを統合しないといけないらしいが、そこまでは長い道のりである。

今のところ、2回に1回は自動改札を通ろうとして失敗し、失敗せずに有人改札を通る3回に1回はカワイソウな人だと見られ、さらに3回に1回は自動改札嫌いの偏屈者を見る目で見られる。

大都会東京でスマートに有人改札を通れる機会は限りなく少ない。

2010/08/08 としでんせつ

うまれてはじめて屋形船に乗った。その昔は蔵前の旦那衆が大川縁の料亭から吉原に乗りつけていたらしいが、現代ではフツーの会社員が浅草橋あたりの神田川から台場沖まで往復するだけである。

過去、隅田川の屋形船に関しては恐ろしい話をいろいろ聞いてきた。いわく、天麩羅の油が古くて箸もつけられない。いわく、トイレが汚すぎて川に直接する方がマシだ。等々。

現代の東京地獄を期待していったものの、そこまでヒドくはない。

エコノミークラスの機内食の天丼みたいに胃もたれはしないし、着陸前の長距離路線のエコノミークラスのトイレのよりはキレイだった。

むしろ東京の夕景は思いのほか美しかったし、川の風は涼しいし、揺られながら飲むビールもうまいもんだ。

飛行機体験は美化されすぎているが、たぶん屋形船のヒドさは誇張されすぎである。イマイチ高めな料金設定のせいだろうか。カワイソウなもんである。

やかたぶね  ああやかたぶね  やかたぶね

2010/08/06 あゆみがのろい

写真を整理していたら、昔、ロサン (そのころ流通させようとしたロサンゼルスの短縮形。ロサンゼルス住民はロサン人。まちがっても魯山人ではない) の日本語新聞に書いた原稿のスキャンコピーがでてきた。

若い。若さを消す無駄な努力というか。なんというか。

友人に指摘されるまでもなく、強引な屁理屈といい、更に強引なオチの付け方といい、同一人物である。

・・・というか、進歩がない。

昔のものは恥ずかしい。

羞恥心を持つ自分自身。思えば大人になったものだ。

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ダンディズム—ある美学

羅府新報に短文を書いてみないかと問われたとき、何も考えずに了承してしまった。

数日後、僕は後悔を始めた。なにも、自分の偏屈ぶりを世に知らしめるのが怖くなったわけではない。編集の人から、若者の考えや目標などについて書いて欲しいと連絡があったのだ。これは無理だと思った。

僕を見た人は、しばしば十年分くらい勘違いするが、僕は間違いなく若者である。しかし、僕がもっと若く、選挙権すらなかった頃から、僕は若者らしくなかった。見たくれだけでなく、モノゴトの考え方も、そして行動も、若者らしくなかった。

むしろ、世間で言うところの「若者らしさ」から、意図的に距離を置いていた感がある。

理由を問われれば、僕にとって、全ては「ダンディズム」に集約される。ダンディとは、一般的に信じられているような、スーツを着こなす技術でも、女性に気の利いたセリフを投げられる才能でもない。

ダンディズムとは、江戸言葉で言う、「洒落」のことだ。「粋」と言い換えても良いかもしれない。「キザ」、「偏屈」、「見栄っ張り」と言った言葉と、本質的には異なるが、イメージ的には近い。ロジェ・ケンプの言葉(ロジェ・ケンプ著「ダンディ」講談社現代新書)を借りてしまえば、ダンディズムとは、画一と平均に反抗し、ものに動ぜず、品位を重んじ、何よりも単純さと無意味さを好むことである。つまり、生き方の哲学であり、美学と言っていい。

僕にとって、ダンディズムは、思考だけでなく、日常の些細な行動の規範となる。

例えば、僕は他の若者達のようにビールをカブ飲みすることもないし、集団でカラオケへも行かない。こうした行動の元になっている価値判断には、ダンディズムが大きな影響を与えている。ビールを飲む選択肢もあり、カラオケに行く選択肢もあるのだが、しかし、僕は他人とは違う酒を飲みたいし、安易な方法で時間を潰したくないのだ。

実際には、ビールを飲まずにスコッチを飲んでいるので、酒を飲んでいることには変わりないし、カラオケに行かなくても、酒場で無駄話をして、時間を浪費している。つまり、行動の本質としては大した違いはないのだが、それでも、これとてダンディな行為なのである。些細なことも、無意味なことも、裏打ちされた美学があれば、全てダンディである。ダンディとは、技術や能力の発露ではなく、個人の根幹にある美学の発露なのだから。

達観したわけではないし、酸いも甘いも知らないままだが、ダンディズムという美学に基づいた僕の思考や行動は、結果として、世間並みの若者らしくない。個人的には貫禄というか、確立された自分のスタイルがあるのだと思いたいが、世間的にはオッサン臭いだけだろう。

突き詰めて考えると、若者らしさ云々というよりも、同世代とは別の事をしようとしているだけなのだ。そうだとすると、若いうちはオッサン臭くてモテず、年をとったら年齢相応の貫禄も何もなく、つまりは一生モテずに終わることになる。
人間、変な美学などは持たない方が良いかも知れない。