はばなのおもいで

数年前にハバナに来た時にロビーのバーが気に入ったというだけでホテルを決めたところ、そこはヘミングウェイが定宿にしていたホテルだった。しかもヘミングウェイの3部屋くらい隣の部屋をあてがわれた。

しかし、このホテルは大作を書いたホテルとは思えない。

たしかにハバナ旧市街のクラシカルなホテルである。ヘミングウェイのせいか、彼の部屋のある5階は観光客であふれており、僕が部屋で窓を開け放してゴロゴロと裸で過ごしていると、廊下でうら若き日本女性の声がする。しかし僕の部屋を訪ねているわけではない。

部屋には、もちろんバスもトイレも付いているが、ヘミングウェイゆかりの宿にしては水圧が弱いし、そもそも国際的に湯と認められるような液体は蛇口から出てこない。時折、ハバナ基準で湯と呼ぶようなものが蛇口から出てくることもあるが、それも運次第である。

この原稿を書いているのは9月上旬の晴れた日、夕方18時過ぎであり、ホテルの窓を開け放しているのは、冷房の効きが悪いからである。実際のところ、いい年こいたオッサンであり、湯の出ない部屋とか、クーラーの効きの悪い部屋とかは正直しんどい。

こんな部屋だから、3部屋分の窓を移動した以外は1930年代のヘミングウェイと同等の条件であることは想像に難くない。僕自身は昼間から飲んでいるが、ヘミングウェイも昼間から飲んでいたのではあるまいか。

ハバナの、ほぼ同じ部屋で、やや酔っ払ってキーボードに向かっている我々 (別名: ヘミングウェイと僕) である。

しかし僕とヘミングウェイには大きな差がある。僕は小説というものを書いた事がない。小説にはプロットというものが必要らしいのだが、ハバナ旧市街の市場では売っていなかったのだ。

そもそもヘミングウェイは温かい湯とキンキンに冷えた客室を求めていたのだろうか。温かい湯を捨て、涼しい部屋を捨て、ハードホイルドを追求した先にこそ、文筆活動における成功点があるのではないか。

湯が出ないとか、エアコンの効きが悪いとか泣き言を言っている場合ではない。創作の厳しさを思い知ったハバナの夕刻である。

はーどぼいると

いつの頃からか野菜市場が好きになり、旅に出て機会があると市場に行っている。

ハバナには中央市場があるらしいが、ちょっと旧市街から遠い。諦めつつも旧市街を歩いていると、小規模な市場があった。壁には野菜やら果物の絵が描いてあったり、チェゲバラの絵が描いてあったりと、まさにキューバの市場である。ちょっとウロウロして、写真を撮って帰った。

なんとなく忘れられなくて、翌日、もう一度行ってみた。

正午前あたり、市場に向かう途中で廃墟のようなボロボロのビルから不健全な匂いを感じた。午前中には嗅ぐべきではない、猥雑ではあるものの、しかし猥褻ではない匂いである。なにかが僕を呼んでいる。

バーである。入り口でためらっていると、酒が呼んでいる。

バックバーにはスコッチからウオッカ、ラムまで、ありとあらゆる酒があるが、ほとんど全て空瓶である。中身の入っている酒は、ハバナクラブのアネホ・ブランコと、正体不明のキューバ国内消費用のラムだけである。ハバナクラブは2本だけ置いてあるが、誰も飲んでいないし、売る気もないようだ。実質的に唯一の営業用の酒は国内用ラムである。ハバナクラブ3年のように、ほんのりと色がついているが、ペットボトルに入っているし、どう見ても安酒である。

このバーのルールはシンプルである。ラムのストレート。それしかない。オンザロックやソーダ割りはない。もちろんモヒートもない。

唯一の選択肢は、シングルかダブル。シングルというと、ショットグラスで測って2杯分 (定義上、それはダブルと称するのではないかという疑問はさておき)、それが空き瓶を加工したグラスに出てくる。ハバナクラブの空き瓶をカットし、下半分を再利用したグラスである。屋台のおでん屋に行くと、大関ワンカップの空コップに安酒が入ってくるが、そんな風情である。グラスを洗っている気配はあるものの、洗剤を使用した気配はない。希望すれば、別にチェイサーらしきものをもらえるようであるが、それも単なる水道水である。

店には無愛想なバーテンダーが一人おり、顔見知りの客とは少しばかり話をしている。あとはキューバ人同士といえども大した会話もなく、むっつりとタバコを片手にストレートのラムを煽っている。

ダブルのようなシングルのラムが兌換ペソで2ペソ。もちろん僕以外の客はキューバ人であり、彼らは人民ペソで払っている。

究極、バーに必要なものは、カウンター、椅子、バーテンダー、それに酒だけである。この店は、それら全てを揃えているものの、それ以上のものは無い。

この店に氷やソーダはない。ナッツやら、つまみになるようなものもない。音楽もテレビもない。扇風機はあるが、これはバーテンダー用である。唯一の追加的なサービスといえば、トイレと灰皿である。トイレは廃墟の奥の方にぽつんとあり、灰皿は空き缶の下半分を再生したものだった。バーとして必要最小限ではあるが、しかしバーとして十分である。居心地も悪くない。

このバーのルールはシンプルに酒と向き合うことである。

陽射しの厳しいハバナの昼前、しかし陽の当たらないボロビルの一角で、ハードボイルドという言葉を再認識した。

もひーと

実際のところ、二度目のハバナに至った理由は一軒のバーである。

ヘミングウェイが通っていたバーから南へ1ブロック。前回のハバナ滞在時、最終日の夕方にフラフラと入ったバーだ。店の名はRestaurante Castillo de Farnes。もう一度、ここに行きたかった。

なんの変哲もないレストラン兼バーである。そして、なんの変哲もないモヒートが出てくる。

とはいえ絶品である。

通りに面したテーブルがオープン席になっており、夕方になると、いい風が入ってくる。控えめに愛想のいい従業員が数人。混雑するでもなく、ガラガラというわけでもなく。時間帯によってはスペイン語のテレビ、運がいいと隣の店に入っているバンドの演奏。キューバ人の客は少ないが、観光客ばかりというわけでもない。ほどほどな日常感である。

そしてモヒート。

まずはミントを丁寧に扱っている。客のいないときは袋にいれて冷蔵庫にしまってあるし、使う前に茎やらダメな葉っぱやらを丁寧に取り分けている。それを念入りに潰す。ラムはドボドボいれるものの、ソーダはメジャーで測ってから入れるという、ちょっと分からないことになっているけど。そして最後にビターを数滴。

客の多いバーは、ミントをグラスに入れたまま出しっぱなしにしていたり、途中まで作りおいたりして、ちょっと雑然としており、結果的に大雑把な味になってしまっているが、ここは丁寧な仕事である。モヒートに限らず南方系のカクテルは大まかに作るものと誤解されがちであるが、丁寧な仕事には違いが出る。モヒートでもマティーニでも同じことなのだろう。

毎日、ここで砂糖抜きのモヒートを飲んでいた。ちょっとヘミングウェイぽい。ヘミングウェイみたいにバーの一席を潰して銅像を建ててもらうまでには至らなかったが、砂糖抜きモヒートの日本人として覚えられていた。しかも日を追うごとにラムの量が増えていく。

帰るべきバーが一軒ふえたのは素晴らしい。